バラエティ豊かななごやめしだが、その個性が生まれた背景には、歴史的、文化的な必然性がある。我らが食文化を支え、育んできたルーツをひもといてみよう。
なごやめしを支える味噌文化
豆みそ(赤みそとも言う)を語らずしてなごやめしは語れない!豆みそは大豆と塩のみを使って長期熟成によって仕込まれ、味噌の原点にも位置づけられる。大豆の発酵食品である味噌や醤油はうまみ成分=グルタミン酸が豊富。うまみには料理の味わいを保ちながら減塩の効果もあり、和食のヘルシーさの基盤にもなるもの。豆みそは長期熟成することでこのうまみが特に凝縮されている。含有量は100g中、約3800㎎と米みそ( 同1800㎎)や麦みそ(同1900㎎)の実に2倍にもおよぶ。
豆みその消費量は国内のみそ全体のわずか5%。そのほとんどが東海地方で食されている。愛知、名古屋では当たり前のあの濃い茶色や甘辛い味わいは、全国的にはほぼなじみのないものなのだ。 豆みそは生産も東海地方限定。生産者は愛知県と三重県にほぼ限られ、特に愛知県は生産の76%を占める。ちなみに「八丁みそ」は豆みその代表的なブランドで、岡崎城下の八丁村(現 八帖町)で作られたことに由来する。また「赤だし」は、豆みそに米みそや調味料を加えた調合みそ、またはそれで作ったみそ汁のことを言う。
大豆と塩だけで作られる。 米みそは米麹、麦みそは麦麹を使うのに比べシンプル。 うまみ成分=グルタミン酸が多い。含有量は米みそや麦みその実におよそ2倍! 完成まで1~3年。1年以内でできる他のみそより熟成期間が飛び抜けて長い品質が安定し日持ちがする。熱にも強く煮込んでも風味が飛んでしまわない。
愛知の歴史と歩んだなごやめし
戦国時代
多くの武将を輩出した愛知。中でも燦然と輝くのが織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑。3人は食への関心も高かった。信長は濃い口好み。南蛮渡来の食にも興味を示し金平糖や南蛮菓子も好んで食した。秀吉は故郷・中村の牛蒡や大根をこよなく愛し、天下人になってからも取り寄せて食べていた。家康は健康オタクと言えるほど食に精通し、自ら薬草も栽培。麦めし、豆味噌を中心とした粗食に徹し、当時としては非常に長寿な75歳まで生きた。
無類の強さを発揮した愛知の侍たち。その活躍を支えたのが豆みそ。長期熟成の賜物で、劣化しにくく栄養価も高く、彼らのパワーの源 となった。平たくのばして炙った焼き味噌は日頃の食事から戦の際の携帯食としても重宝された。ショウガやゴマを練りこみ、ゴマ油で焼く豪華版もあった。出陣の際に携帯したのが焼きおにぎり。武将も足軽もこれを食べて武功を競い合った。豆みそは貴重なスタミナ源として陣中食としてもしばしば食された。
江戸時代
戦国武将の間で熱狂的ブームが巻き起こった茶の湯。江戸時代になるとその人気は町人の間にも広まった。尾張徳川家が茶道に熱心 だったことから、名古屋では特にこの動きが活発で、独自の流派である松尾流も誕生した。客人に抹茶を出すおもてなし精神や、お茶 でひと休みするいっぷくの習慣も浸透。モーニングなどのサービス、幅広い世代が日常的に利用する喫茶店大好き気質は、江戸時代から の茶の湯文化の流れをくむものだといえるかもしれない。
茶の湯には欠かせないのが和菓子。茶道熱が高い愛知では当然、和菓子文化も発展した。和菓子店の軒数は多く、また技術も確か。お 茶席向けの上級の和菓子を作れる店が町のいたるところにあるのは、他の地域ではあまり見られないことだ。年間の支出額も名古屋市が2万円以上と全国平均の約1万5000円よりも高い。小豆あんの甘みがしっかりした菓子が好まれるのも特徴。あんこ好き嗜好から、なごやめしのひとつ、小倉トーストも誕生したと言える。